江戸時代の大地震と大津波の教訓を記した碑
| 所在地 | 寺町北側 |
| 特徴 | 江戸末期建立 石屋(西森)忠兵衛が記碑を刀刻 石の高さ1.8m、幅62cm、台石とともに高さ2.65m 和歌山県指定文化財 |
道町通りの道標のある角を西に寺町通りを進むと右手に深専寺があり、その山門入り口の左側にこの「大地震津なみ心え之記」と書かれた碑があります。
嘉永7年(安政元年・1854年)11月4日(新暦12月24日)の「安政東海地震」(M8.4)とその32時間後の「安政南海地震」(M8.4)が連続して和歌山を襲いました。強烈な揺れを繰り返し、ついには、ここ湯浅地区や隣町の広村も大きな津波に襲われました。
地震発生2年後、安政三年、深専寺住職善徴上人(承空上人)の代にこの碑が建立されました。全文528文字は平易な仮名交じり文です。
碑文は、大地震の概要を記すとともに、
「昔からの言い伝えによると、井戸の水が減ったり、濁ったりすると津波が起こる前兆であるというが、今回(嘉永七年)の地震の時は、井戸の水は減りも濁りもしなかった。
そうであるとすれば、井戸水の増減などにかかわらず、今後万一、地震が起これば、火の用心をして、その上、津波が押し寄せてくるものと考え、絶対に浜辺や川筋に逃げず、この深専寺の門前を通って東へと向い、天神山の方へ逃げること」
と具体的な避難経路を示し、また、言い伝えだけにとらわれないようにと、後の人を戒めたものです。
また、この深専寺には、大木・名木がいくつかあります。
山門右側の塀の内側にある「ねじき」はその幹がくねるようにねじれていて、見るものを圧倒する迫力があります。
また、墓地中央の大きな楠は、遠くからも見え、深専寺のシンボルになっています。
その他に墓地の奥に、平賀源内ゆかりの「ホルトノキ」がありましたが、2006年猛暑の夏、残念ながら枯れてしまいました。お墓を洗う洗剤が木の根に悪い影響を与えたのではないか、とのことです。
深専寺のホルトノキは、平賀源内がこの木を見て、その実をオリーブと間違え「ポルトガルの木」という意味で「ホルトノキ」と名付けたと伝えられていました。
江戸時代後期に描かれた紀州名所図会(後編巻の四:1811〜1851年にかけて刊行)には、「湯浅旅舎深専寺」として熊野街道に面して栄えている道町の様子と深専寺が描かれています。
この絵は安政大地震の前に描かれたため、山門入り口の左側の「大地震津なみ心え之記」の碑はもちろんありません。
また、境内に描かれた木に「タンハン木(擔八樹:タンバンジュ)アリ」と添えた言葉があります。「玉光山深専寺」の説明文では、「・・・平賀鳩渓の〔物類品隲〕に、湯浅深専寺内に擔八樹の大木あり。高さ七八丈、周囲一丈三四尺と見えたる樹、今猶枝葉年々繁茂せり。」とあり、平賀源内がその著書〔物類品隲〕でオリーブと間違えて紹介した「ホルトノキ」である事を示しています。



